明智光秀は実は生きていた。天海説

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明智光秀は実は生きていた。天海
 


『通説』


明智光秀と言えば、本能寺の変で主君織田信長を殺したが、その後、山崎の合戦で敗れて、豊臣秀吉に討たれとされる。
 

 

『俗説』
 

明智光秀は生き延びて、その後、徳川家康の側近、天海になったとする説。

 


『検証』


明智光秀と天海は同じ桔梗紋を使っていた。
 

・天海は豊臣家に恨みを持っていた様で、方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件の時には豊臣家に難癖をつけるなど、彼の発言がきっかけで大坂の陣が始まったとする説がある。
 

・天海の前半の人生は不明な点が多い。
 

・天海と関係の深い比叡山には、「慶長20217日、奉寄進、願主光秀」と刻まれた石灯籠が存在している。
 
 

実は生きたいたシリーズの中でも、その信憑性は高い。

 

 

 

 

『記事内の人物紹介』

 

織田信長→1534〜1582年、尾張の戦国大名。桶狭間の戦いで今川義元を倒して台頭、その後、斉藤家を滅ぼし、後に上洛を果たす。足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、全国統一の寸前で家臣の明智光秀の謀反により、本能寺の変で倒れた。関所の撤廃や楽市楽座、兵農分離などの改革を行い、新しい時代、近世を創りだした。

 

豊臣秀吉1537年〜1598年、織田信長の家臣として台頭、本能寺の変後に、全国を統一して天下人になる。刀狩り、兵農分離、太閤検地などの政策で全国を支配する。晩年には朝鮮出兵を行った。
 

 

徳川家康→1542〜1616年、江戸幕府の初代将軍。桶狭間の戦い後に織田信長と結んで勢力を拡大する。織田信長死後は豊臣秀吉と対立するが、後に和睦し、その傘下に入る。豊臣秀吉死後は関ヶ原の戦いで石田三成を破り、事実上の天下人となる。その後、豊臣家を滅びして、江戸幕府の基礎を固めた。

 

明智光秀→1528頃から1582年、織田信長に仕え活躍する。その後、京都の本能寺で主君織田信長を倒した。しかし、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて死亡した。

 

天海→安土桃山時代から江戸時代初期の人物、徳川家康の側近として幕府の政治に大きく関与した。三代将軍徳川家光の時代まで活躍する。1643年没、108の長寿であった。

 

 


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